「ありがとう、助かる!」
「気が利くね~!」
「ぽてとっとちゃんって、ほんとやさしいよね!」
はい、嬉しいです。えぇ、もちろん。
でも正直に言うと、内心ではこう思ってました。

……(でも、誰か、わたしのこと気づいてくれない?)
わたし、“やさしい人”を演じてました
看護学生時代。
「気が利く子」「頼みやすい子」「話しかけやすい子」って言われるように、わたしなりに空気を読みまくって、対応力高めな“やさしい人”を演じてた。
いや、演じてるって自覚もないくらい、もはや自動再生モード。
●頼まれごとは断れない
●感情はとりあえず飲み込む
●体力ゲージがゼロでも「大丈夫!」と笑う
もう、やさしさ(?)のフルコース。胃もたれ確定。
ふつうに疲れてるのに、「みんな忙しいし、わたしが動いたほうが早いかな」って勝手に自分を動かして、それが評価されちゃったりするもんだから、ますます“やさしい人ルート”から降りられなくなる。
気づけば、自分の感情より、他人の顔色のほうが詳しくなってた。
限界突破イベント、発生。
そしてある日、プツンと糸が切れた。
それまで「まぁ、もうちょっとだけがんばろう」で耐えてたのに、急になにもできなくなった。
朝起きられない。
お風呂に入る気力もない。
人と話すどころか、スマホの通知音すらつらい。
わたしは、双極性障害を発症した。
「なんで?わたし、そんなにムリしてた?」
「頑張ってたはずなのに、なんで動けなくなるの?」
「ねぇ、わたしって誰のために頑張ってたんだっけ?」
答えはすぐに出なかった。
でも、心と身体がもう限界だったことだけは、ものすごくよくわかった。
仮面って、密閉されてるから苦しいよね
今思えば、ずっと「やさしい人」っていう仮面をかぶってた。
それがわたしの“よさ”だと思ってたし、みんなに迷惑かけないのが大人だと思ってた。
でも仮面って、空気通らない。呼吸できない。
そりゃ倒れるよね。
感情は、抑えちゃダメ。感じきってなんぼ。
あのあと、ちゃんと自分と向き合う時間をとって、気づいたことがある。
わたし、NOって言えなかっただけじゃなくて、「自分がイヤだと感じてる」ことすら認めてなかった。
頼まれてモヤモヤしても、「気にしすぎかな」って打ち消してたし、傷ついても「わたしが悪いだけ」って自己処理してた。
その結果、自分の“しんどい”に誰よりも鈍感になってた。
でも、ほんとのやさしさって、そうじゃなかった。
やさしさって、
●相手のためにガマンすること じゃなくて
●自分も相手も大事にする“境界線”を引くこと だったんだと思う。
そしてその境界線を守るためには、「NO」って言える練習がめちゃくちゃ大事だった。
それくらいで離れる人は、その程度だった
最初は怖かったよ。
「断ったら嫌われるかも」とか「冷たいと思われるかも」とか、ぐるぐるした。
でも実際にNOを伝えてみたら、「あっ、意外と平気じゃん」ってなったことのほうが多かった。
むしろほんとうに大事な人は、「ムリしないでね」って言ってくれた。
逆に、NOを出したらフェードアウトしていった人たち。
それはそれで、うん、見極めチェック通過ありがとうって感じ。
まとめ:やさしい人、もうやめる。
今のわたしは、“いい子の仮面”、脱ぎました。
でも不思議なことに、それでも「やさしいね」って言ってくれる人はいる。
しかも、前よりラクなわたしのままで。
だから思うんだ。
やさしさって、“がんばって演じるもの”じゃなくて、“自然とにじむもの”でいいんじゃない?
わたしはもう、ムリして笑ったりしないし、「しんどい」って言えるようになった。
それだけで、ずいぶん呼吸がしやすくなった気がする。
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