~“ちゃんとしてる人”に憧れて疲れてた、昔のわたしへ~
「普通になりたい」って、なんであんなに思ってたんだろう?
今のわたしが中学生だったころのわたしに問いかけたら、たぶん彼女はこう返すと思う。
「いや、そりゃなりたかったよ?(キレ気味)」って。
“ちゃんと”してる子になりたすぎた時代
わたしが「普通の子選手権」に本気でエントリーしてたのは中学時代。
- 学校にちゃんと行ける
- 感情が安定してる
- 怒られない、浮かない、ちゃんと笑える
そんな「ちゃんとルール」を完璧に守れる人になりたかった。
だって当時のわたし、感情ジェットコースターだし、たまに学校行けてなかったし、めちゃくちゃ浮いてたんだよね。
「ザ・場違い」って自分で感じるくらい。
「じゃあ“ちゃんと”すれば、浮かないんじゃ?」
そんな気持ちで、みんなに合わせようと必死でした。
“普通”って、誰が決めたんだっけ?
あのころのわたしは、「普通でいなきゃ」を合言葉に仮面生活。
明るくていい子のふりをして、毎日が「フツウごっこ」。
でもふと気づく。
「そもそも“普通”って誰が決めたん?」って。
理想的な人のいいとこ取りをして、自分の中で勝手にコラージュ。
それに名前をつけて、「これが普通の正解です」って思い込んでただけだった。
そして今:ひきこもって気づいた“ズレ”の愛おしさ
時は流れて現在、ぽてとっと、まあまあ引きこもってます。
- 基本、旦那以外に人と会わない
- 外には必要最低限しか出ない
- 感情、あまり隠してない(むしろ漏れてる)
そんな生活をしていたら、ふと思った。
「ん?別に変でもよくないか?」って。
むしろ“変”な自分に味があるかもしれない説
エッセイやnoteを読み漁るうちに、「変わってる=魅力」って感覚がじわじわ広がってきた。
感情のアップダウンも、脳内での過剰会議も、「おい、今日も議題多すぎな!」って自分にツッコめるようになった。
あのころよりちょっと、自分の取り扱いが上手くなってきた気がする。
もし“普通”になれてたら?
もしも、あのときほんとに“普通の子”になれてたら?
それはそれで生きやすかったかもしれない。
でもね、正直、ちょっとつまらなかったかも。
あんなにぐるぐる悩んだ日々が今は“わたしコンテンツ”の元ネタになってるし、仮面生活のツラさだって今ならユーモア混じりに語れる。
「わたし、めんどくさいな~」って思った瞬間すら、今となってはちょっと愛おしい。
まとめ:ズレてる自分も、まあいいじゃん。
“普通になりたかった昔のわたし”に、今のわたしが言いたいのはこれ👇️
「いや、変でもいいんだよ。むしろそのズレ、いい味出してるから。」
“ちゃんと”してない自分だからこそ書けることがあるし、誰かに共感してもらえることもある。
だから今日もわたしは、「ちゃんとしてないまま」生きていきます。
ぐるぐる考えながら、たまに笑いながら。
そして、そんな自分を全力でネタにしていく所存です🌀
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